「農政の語り部」高木勇樹氏インタビュー〈1〉制定20年迎えた基本法のベース「新政策」の前夜まで

高木勇樹氏
令和元年は「いわゆる減反廃止」2年度目で、出来秋ともなれば例年、大規模な政策論議の音が聞こえてきてもおかしくない時期だ。ところが聞こえて来るのは、等級間格差や農産物検査規格など、比較的細かな制度をめぐるものばかり。そんなに今の制度は安定しているのだろうか。この状況を「ベタ凪」と表現する人物がいる。自称「農政の語り部」であり本紙「米麦日報」のご意見番でもある高木勇樹氏(元農林水産事務次官、現・日本プロ農業総合支援機構理事長)だ。令和元年は、食料・農業・農村基本法の制定20年にあたり、実は食糧法の制定25年でもある。このあたりを入り口に、本紙ではインタビューを実施した。

――食料・農業・農村基本法の制定20年を語っていただくわけですが、いきなり農業基本法に代わる「新たな基本法を」という流れに至ったわけではありませんよね?どこからお話を始めるのが適当でしょうか。やはり1992年(平成4年)6月の「新政策」(新しい食料・農業・農村政策の方向)からでしょうか。

確かに1961年(昭和36年)に出来た農業基本法に基づく政策が行われ得なかったのは事実ですし、「新政策」が後の基本法のベースになったのも事実です。しかし「新政策」だって、いきなり策定したわけではありません。その当時の状況から説明しないといけませんね。

まず農業基本法は、生産性の向上による農家所得の増大、農工間の所得格差の是正を目的に掲げた理念法(第1条)で、これに基づく「総合的な施策」を講じる(第2条)という構造になっていて、そのうち、いわゆる「選択的拡大」(本紙註=第2条第1項の1に『需要が増加する農産物の生産の増進、需要が減少する農産物の生産の転換、外国産農産物と競争関係にある農産物の生産の合理化等農業生産の選択的拡大を図ること』とある)の部分は、農業基本法で述べられた通りの方向へ動いたと思います。しかし、その前提となる構造改革的な箇所は、残念ながら「総合的な施策」が行われ得なかった。原因は、戦後農政を形づくった3つの仕組みにあると思っています。

3つの仕組みとは、食糧管理法、農地法、農業協同組合法のトライアングルのことです。いや、戦後の食糧難の時代を乗り越えるためには、非常に良いシステムだったと評価できます。ところが、3法いずれも現実の対処能力を失ってしまった、言い換えると役割を終えたはずなのに、継ぎ足し改めながらトライアングルを維持して来てしまった。それが既得権益、ステイクホルダーを生み、長いこと抜本的な改革を阻んで来てしまった。これが、農業基本法に基づく「総合的な施策」が行われ得なかった原因です。

例えば農地制度。農地そのものは、高度経済成長のなかで「農地としての価値」がどんどん失われていき、資産的な価値へとスライドしていきました。所有者が「待っていれば地価(資産的価値)が上がるのではないか」と期待していた時代が確実にあって、当初は都市近郊だけでしたが、「日本列島改造論」あたりから地方へも波及していきました。これが今でもDNAに染みついてしまっているようなものです。もともと日本人に、土地に対する私有財産、財産権の保障といった意識が強いことが背景にあるんですが、憲法にはちゃんと、公共の福祉によって一定の制約を受けるって書いてあるんです(本紙註=日本国憲法第29条第1項『財産権は、これを侵してはならない』、第2項『財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める』、第3項『私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる』)。でも、あまり表に出て来ない。最近になって、ようやく「公共の福祉的な発想で」と出て来るようになりましたが、これはもう追い詰められての話であって、本来ならもっと早く農地には公共の福祉の観点から、一定の制約を科しておくべきでした。いや、実は戦後の農地解放の際、使われていない農地は取りあげる、買い戻すといった仕組みがあったんですが、実行されないまま死文化していってしまいました。

一方、農地法そのものも、大変な矛盾を抱えていました。(改正前の)第1条に出て来る理念です。「耕作者自らが農地を所有することを最も適当である」。いわゆる「耕作者主義(自作農主義)」ですね。農地を所有するのが耕作者であるとするなら本来、耕作放棄地なんて発生するはずがありません。それがどんどん増えてきて、かなり深刻な事態になってきた。これが「新政策」前夜の状況です。先ほども言いましたが、戦後の食糧難を乗り越えるためには、非常に良いシステムの一つだったのが農地制度です。しかし、そのシステムの立派さ、理念の立派さと、現実に起こっていることの深刻さとが、噛み合わない、マッチングしないまま来てしまった。私は農地制度は、非常に不幸な歴史を辿ってきたと思っています。これが何をもたらしたかというと、農地制度については、議論することすらタブーになっていた状況です。

――結果的に「新政策」には、農地制度に関する記述がほとんどありませんね。

そう。議論の俎上にすら上らないまま、潰されてしまったわけです。

当時の私は大臣官房企画室長で、「新政策」を策定するにあたって審議会ではなく、省内で官房を中心に各局連携で議論する方法をとりました。ただし、それでは思い込みという危険な要素が加わってしまうため、外部の有識者にアドバイザリーグループをお願いしました。これには当時、経済同友会の大変な論客だった諸井虔さん(故人。当時の秩父セメント(株)会長、後の経団連副会長)に座長に就いていただいて、10人ほどで1991年(平成3年)の秋頃から議論を始めました。しかし農地制度は、その議論の俎上に上ることもないままでした。

この農地制度に限って言うと、役割を終えて以降も継ぎ足し改めながら維持して来た結果、ステイクホルダー「いわゆる農地族」を生んでしまいました。これには農林事務次官経験者も含まれていましたね。今どう思っておられるのかは分かりませんが、当時は戦後まもなくの意識と同じでした。「農地を解放する」、地主から農地を買い上げて小作に売り戻した、こんなことは、少なくとも東アジアの国で出来た例はない、歴史的遺産である――守ることに意義がある、そう仰る諸先輩方は非常に多かったですね。戦後の農地制度に深く関わった方々は、思いが深かったということでしょう。

もちろん諸先輩方のなかには、何とかしようと四苦八苦された方々もいて、例えば昭和40年代、農地を国が買い上げて再配分する「農地管理事業団法」が構想されたことがありました。ところが「小農切り捨て」の一言で大反対に遭って、潰されてしまいます。都道府県・市町村に農地公社を作り、これで代替しようとするんですが、これがさまざまな変遷を経て今の「農地バンク」に繋がっていきます。しかし、そのように当時の諸先輩方は一所懸命対応しようとしたのに、ことごとく強固なステイクホルダーに潰されていったのが、農地制度の不幸な歴史でした。

「新政策」当時に話を戻しますが、大臣官房企画室長だった私は、農地制度に関わった経験がないものですから、「耕作者主義」であるはずの農地制度の下で耕作放棄地が発生している現実に対して、素直に驚き、甚だ疑問であったので、「それはそれはおかしい」と申し上げたんですね。すると当時の担当者の回答は、「別に農地制度が悪いのではない。(耕作放棄地が出来るのは)作るものがないからだ」というものでした。こと農地制度に限っては、ほとんど口にするのもタブーな時代でした。

――トライアングルの残る2つ、食管というか米政策と農協制度については?

同じですよ。食管制度は農地制度と同様、戦後の食糧難を乗り越えるためには非常に良く機能したシステムでしたが、昭和40年代に入って米の需要が落ちてきても、それがずっと続くとは、その頃の誰も信じていないわけですよ。諸先輩方には「米は日本人の主食である。食べなくなるはずがない。いつか必ず復活する」という思いがあって、あくまで緊急避難として「稲作転換対策」を2年間実施します。これが最初の生産調整で、あくまで緊急避難の対応のつもりでした。まさかそれが50年以上も続くとは当時の誰も想像しなかったでしょう。

緊急避難のはずの生産調整が続く一方、食管制度そのものも続いていますから、米の政府買入価格(生産者米価)は、後に申し上げるように政治的に決まります。日本には経営感覚のある農業者が多いですから、ならば当然、米を一所懸命作ろうとする。私は1966年(昭和41年)入省で、その翌年、農村派遣研修の第1号として滋賀県の稲枝町(現在の彦根市)に派遣されました。町内の至るところに「5石穫りを達成しよう」という看板が立っていました(本紙註=5石穫りは反収750kgに相当。ちなみに現在の全国平均反収は536kg)。そういう時代だったんです。米の需要量はすでに減り始めていた頃です。ところが生産量は増え続ける。そのギャップたるや恐ろしいほどのものでした。

生産調整が始まったのと前後して、「自主流通米」という制度が出来ます(1969年=昭和44年)。政府を経由せず農協(集荷業者)から卸に直接流通する制度のことで、目的はともかく、「おいしい米で消費者の需要を掴もう」という方向に行きかけたんです。聞くところによると、その制度の運用を、当時の桧垣徳太郎さん(故人。当時の食糧庁長官、農林事務次官。後に参議院議員として郵政相など歴任。政界引退後も全国農業会議所会長を務めた)は農協に担わせようとして、「農協食管」などという言われ方もされたんですが、農協からは拒否されてしまいました。すると政府がやらざるを得ない。となるとこれは、一種の脱法行為になってしまいます。

食管法は「政府が全量をコントロールする」大前提がありますから、自主流通米のような仕組みが出来るとは書いていないんですね。後に改正しましたが。ともかく最初は自主流通米なんて、ちっとも浸透しませんでした。それはそうでしょう。その時代の米は、たくさん作れば政府が一定の値段で買い上げてくれるんですから。しかも買い上げ単価は「生産費所得補償方式」。この頃、生産者米価を決めることになっていた米価審議会の開催時期は、「農民春闘」などと呼ばれ、要するに政治を突き上げれば一定の買い上げ単価を得られる時代でした。そうやって食管制度も農地制度と同様、現実とのギャップをどんどん広げていくことになるわけです。

農協制度は――ある意味で食管制度とコンビを組んでいた制度と言えます。もちろんそれだけではありませんが、ここでは絞って指摘しておきます。食管制度を運営していく上で、米を政府が一元管理する、米を集荷し販売していく、特に集荷する主体が全国津々浦々にあるのが一番良いわけです。食管制度を運営していく上で、農協制度は非常に有効に働いたシステムであると言えます。農協側にとっても、政府が買い入れた米の代金が農協に全部集まるのですから、黙っていても貯金残高が増えるというメリットがあったわけです。

農地制度、食管制度、農協制度、このトライアングルが非常に盤石だったわけです。ところが盤石であるからこそ、その下の地下水位が上がっていき、実は盤石を支えるものが崩れていくのが見えてきた。これが「新政策」の前夜までに起こっていたことです。

【プロフィール】
たかぎ・ゆうき 1943年(昭和18年)群馬県生まれ。東大法卒、1966年(昭和41年)農林省入省。畜産局長、大臣官房長、食糧庁長官などを経て1998年(平成10年)農林水産事務次官。退官後、農林中金総合研究所理事長、農林漁業金融公庫(当時)総裁など。ライフワークのJ-PAO(日本プロ農業総合支援機構)理事長、JBAC(日本ブランド農業事業協同組合)顧問、やまと凛々アグリネット顧問などを務めている。76歳。

〈米麦日報 2019年10月24日付〉